お米と農産物先物市場

― 令和の米騒動と先物取引の意義 ―

2026-05-14

はじめに
第1章 令和の米騒動 ― 米が不足する時代に入った
第2章 金融論的視点 ― 先物は資本主義の最高の花
第3章 先物取引誕生の歴史
第4章 概算金・買取り・委託販売 ― 堂島と連動する必然
第5章 常識と非常識 ― 70年の空白を埋める
第6章 大正米騒動の教訓 ― 鈴木商店の悲劇
結び
質疑応答

第3章 先物取引誕生の歴史

3-1. 1730年、世界最初の先物市場

 話題を変え、歴史の話をします。1730年、徳川吉宗の時代に世界で最初の先物市場が大坂・堂島に誕生しました。この頃、江戸時代の人口は3千万を超え、食料を近隣からではなく日本全国から取り寄せる必要が生じていた。これが江戸時代の商品市場・流通発達の理由の一つです。当時の諺に「人は陸(おか)の道、物は水の道」とあります。


3-2. 北前船と買積み船のリスク

 北前船は、函館・松前から十三湊を経て、新潟・富山・小浜・敦賀、関門海峡を抜けて兵庫湊・大坂・京へと向かいました。東回りもありましたが、西回り(日本海回り)の方が運賃は安い。なぜなら、随所に小さな避難港があり、太平洋側のような難所(銚子沖、熊野灘など)危険個所が少なかったからです。
 もう一つの決定的な違いは仕入れ方式です。北前船は「買積み船」と呼ばれ、自らのリスクで商品を買い取ります。函館や松前の昆布、ニシンなどを買い、西へ運ぶ途中で売り、また別のモノを仕入れ、売買を繰り返しながら一回の航海を終える。売り手はすでに代金を受け取っているので、以後のリスクは買い手側(船主側)にあります。
 買い取るには「これが高値か否か、利益が出るかどうか」を判断する情報が要る。そこで発達したのが、堂島の米相場が昨日より今日、今日より明日どう動いているかの情報網です。そのために発明されたのが「旗振り通信」です。畳1枚ほどの旗を高所に掲げ、色で買い・売り・横ばいを伝える。大坂から桑名まで15〜30分で情報が届いたといいます。パソコンもない時代に、昔の人はよくやったものです。


3-3. のろし通信と現代の対決

 もう一つ、狼煙(のろし)通信もあります。武田信玄と上杉謙信の時代、信濃奥の領地で動きがあれば、甲府の本陣へ即座に伝えねばならなかった。狼煙場の色で「上杉勢信濃に侵攻」といった危急の情報を伝えたわけです。
 この狼煙通信を現代に再現した方がいまして、特急あずさと速度を競わせる実験を行いました。上諏訪から甲府まで所要時間はほぼ同じ40分ほど。ただし、甲府駅から武田館まで別の交通手段を必要とするため、最終的に武田館に着いたのは狼煙のほうが早かった。アナログ通信も案外侮れない、という日経新聞の文化欄の記事がありました。


3-4. 江戸時代に先物が生まれた理由 ― 吉宗と越前守

 徳川吉宗は別名を「八木(ハチボク)将軍」と呼ばれます。「八」と「木」を合わせれば「米」になるからです。紀州藩時代に飢饉を経験していた吉宗は、徳川将軍になってからも、節約で消費を減らし、開拓で増産を進めました。ところが、効果が出過ぎて需給はバランスを崩し、過剰になる。そうなったときに価格が下がれば、米を給料として受け取る武士階級が困る。米価が下がる=給料が下がるのと同じだからです。
 そこで大岡越前守や江戸・大坂の商人と相談し、考案されたのが「買い気配」、すなわち先物契約に近い仕組みでした。その契約の切手(証券)が転々と売買され、実物の米以上の取引が広がっていくことを期待したわけです。
 ただし結果は地域で分かれました。江戸は100万人の消費都市で、入荷した米はそこで消費されきってしまい、コメの回転は1回で終わる。これに対し大坂(50万人都市)では、商人が賢く、切手が転々流通し、何十倍もの約束買いが積み上がって相場が立ちました。これが堂島米会所の勘所です。


3-5. 加賀藩と越後米の「裏話」

 加賀藩が絡んだ裏話があります。今でこそ加賀の米はおいしいとされますが、当時のランクは下の方でした。しかしもっと下に、新潟のジャブジャブの田んぼで作られた越後米があった。加賀藩は、加賀米そのものを売るよりも、越後の格下米を加賀に入れ、加賀米を京・大坂で売るという戦略を考えた。加賀藩は、敦賀から琵琶湖への水路開発し、短時日でコメを京・大坂に輸送することまで構想していたと伝えられています。加賀100万石の後ろ盾があってこそ、堂島取引所は当時の日本一、すなわち世界一のポジションを築いたといえます。

(⇒次回 3-6. 遠山の金さんと闇の先物取引
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